米沢城の歴史

米沢城が最初に築かれたのは、鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたとされている。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗り、約200年に渡り長井氏が置賜を治めた。その後伊達氏に攻滅ぼされる。伊達氏は伊達、信夫を本拠地としていたが、米沢に移し伊達政宗もこの城で生まれている。
伊達氏は戦国大名として活躍するが、豊臣秀吉の命により岩出山城(宮城県大崎市)に移され、替って会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配下に米沢城はおかれた。1598年秀吉の命により会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封した。米沢城主には重臣・直江兼続が入った。
関ヶ原の戦いで西軍方に付いた、上杉景勝が米沢30万石に減封され、米沢城に入城、城下の整備に着手した。
以後後継問題で、15万石となるが、米沢城は、270年に渡り上杉氏13代の居城として明治維新を迎える。

上杉謙信

上杉神社(米沢城跡)の謙信像
米沢上杉家の藩祖。 越後守護代長尾為景の末子として春日山城に生れ、禅寺に育ちましたが父の死後、国の乱れを鎮圧。のち、関東管領職の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定につとめました。
御廟所(米沢藩主上杉家墓所)正面中央が上杉謙信廟。謙信の遺骸は上杉氏の移動にともない、越後春日山から会津若松、さらに米沢に運ばれ、江戸時代は米沢城本丸に手厚く祀られていましたが、明治9年に御廟所に移されました。

上杉景勝・直江兼続

  120万石から30万石に減らされも、家臣はそのまま、米沢に移りました。
 兼続は元の城下を拡げ、家臣団の屋敷割りと町割りを行い、城下に収容しきれなかった下級武士を郊外の南原・東原(山上・花沢)に配置し、荒地の開拓にあたらせました。
  特に治水事業に力をいれ、米沢の東を流れる松川に谷地川原堤防を築きました。今は、「直江堤公園」として整備されています。公園橋を挟んだ下流に堤防は続いてます。
積まれた石の量に驚くばかりです。
龍師火帝の碑
 米沢市李山丹南の最上川(松川)左岸にある龍師は水神、火帝は火神の意味です。
 直江兼続が洪水防止と干ばつ防止を願い建立したといわれています。
猿尾堰取水口のそばにあります。(現在も掘立川に注ぎ農業用水・生活用水として使われています)。途中トトロに似た木があります。

朝日軍道
当時庄内は上杉領で、米沢から庄内にぬけるのに、平地では敵である最上の山形を通っていかないといけないので、長井市草岡から朝日連峰を縦走してゆく道を整備した。
麓から見る朝日連邦です。

上杉鷹山

上杉 鷹山が、17歳にして9代目米沢藩主に就いたとき、財政破綻していました。兼続を心の師と仰ぎ、藩政運営の手本としたといわれています。
藩政の改革に努め、自らも節倹を率先励行、財政改革・殖産興業・新田開発を行い、藩政を立て直した。

伊達政宗・支倉常長

戦国武将・伊達政宗は米沢城に生まれ、豊臣秀吉の命により仙台岩出山城に移封されるまで米沢にてすごしました。 生誕の地、舘山城跡は、米沢市の南西部の小樽川と大樽川が合流する小高い丘陵地にあります。
また、伊達政宗の命を受けて遣欧使節団を率い、スペイン国王やローマ法王に面会した支倉常長もここからほど近い現在の米沢市立石に生まれたと伝えられています。2014年の田んぼアートに選ばれています。

上杉雪灯籠祭り

毎年2月第2土曜・日曜に、松が岬公園一帯を主会場に2日間にわたって行われます。たくさんの雪灯篭、雪ぼんぼり キャンドルライトがとても幻想的です。